カテゴリー「聖書の言葉」の7件の記事

2015年10月 1日 (木)

主に歌え(ロゴス・ミニストリー)

詩篇95-100篇 「主に歌え」

アウトライン

1A 造り主 95
   1B 大いなる神 1-3
   2B 牧場の羊 4-7
   3B かたくなな心 8-11
2A 宣教の神 96
   1B 全地の神 1-6
   2B 主へのささげ物 7-9
   3B 天地の喜び 10-13
3A 裁き主 97
   1B 天地の震え 1-7
   2B シオンの喜び 8-9
   3B 聖なる御名 10-12
4A 奇しい方 98
   1B 救い御業 1-3
   2B 全地の喜び 4-9
5A 御座に着かれる方 99
   1B 聖なる御名 1-5
   2B 祈りへの答え 6-9
6A 感謝すべき方 100

本文

 詩篇第95篇を開いてください。今日は95篇から100篇までを学びます。ここでのメッセージ題は、「主に歌え」です。95篇から100篇までは、礼拝とは何であるかをはっきりと教えてくれる箇所です。「礼拝」という言葉は何を意味しているでしょうか?「ひれ伏して、拝む」ですね。人間がひれ伏して拝するのは、すべての権威と権力をもった王に対してです。権力と権威だけでなく、威厳、栄光、名誉、富などを持ち合わせている存在です。

 ここの詩篇では、私たちの主が王であることを前面に出しています。そしてこの方が王であるのだから、私たちはこの方の前に来てひれ伏そうではないか、という呼びかけになっています。
 また詩篇は、ヘブル人が賛歌、賛美する歌として編纂されているものです。ここの詩篇は特に、主を礼拝するとき、歌をもって賛美することを奨励している箇所になっています。

1A 造り主 95
1B 大いなる神 1-3
95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

 私がクリスチャンになったばかりの時、教会でなぜ歌わなければいけないのか、戸惑ったことを覚えています。神とキリストを自分の思いの中で認めていればいいではないか、歌が下手な人はどうすればいいのか?と思ったものです。

 けれども、歌わなければいけない理由があります。それは、聖書自体が神を礼拝するとき、歌をもって賛美しなければいけないことを命令しているからです。「喜び歌おう」「感謝の歌をもって、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう」と言っています。

 そして、もう一つ、歌わなければいけない、いや歌わずにはいられない理由があります。それは、「喜び」と「感謝」です。私たちが喜んでいるとき、感謝しているとき、また称賛したいとき、それをどのように言い表せばいいでしょうか?祈りでもそれを言い表すことができるでしょう、また他の信者、聖徒たちに言い表すこともできるでしょう。けれども、それでもまだ物足りない。メロディーをつけて、歌にすることによって喜びと感謝、賛美を言い表すことができるのです。

95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

 すばらしい告白です。聖書、特に旧約聖書は、このような大胆な告白で満ちています。イスラエルの民は、周囲の異邦の民に囲まれて生きていました。彼らはみな、自分たちの神々を持っていました。もちろんそれらは偶像であり、本物の神ではありません。そして彼らは、イスラエルの神を自分たちの多神教の神の一つであると考えていました。

 その中で、「主は、すべての神々にまさって、大いなる王である。」と告白したのです。私たち日本人は、イスラエルと同じような状況の中にいます。異教の神々に取り囲まれて生きている少数派です。けれども、「キリストは大いなる神であり、神社の神々、お寺の仏さん、先祖の霊、天皇にまさって、大いなる王である。」と告白して、はばからないのです。

2B 牧場の羊 4-7
95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。

 地の深み、山々の頂、つまり、一番低いところから、一番高いところまですべて主の御手の中にある、ということです。

95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。95:7a 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。

 私たちの神さまは、私たちに個人的に、人格的に関わってくださる方です。羊飼いが自分の羊を知っているように、また羊が自分の羊飼いを知っているように、神は私たちを個人的に知っておられます。私たちも、神を個人的に知っています。主イエス・キリストは、「わたしは良い牧者です。(ヨハネ10:11」と言われました。

3B かたくなな心 8-11
95:7bきょう、もし御声を聞くなら、95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

 神が私たちの羊飼いであられ、私たちが神の牧場の羊であるなら、神の御声を私たちが聞くことによって導かれ、守られ、養われるということです。神の御声を聞いて、神に全幅の信頼を置いて付いて行くことは、自分たちの生存に非常に大切な要素となってきます。

 けれどもそれをしなかった歴史をイスラエルは持っています。イスラエルがエジプトから出て、荒野の旅をしていた時のことです。彼らの問題は、「心をかたくなにした」ことです。神から声を聞いたとき、それを意図的に拒んで、退けたことです。

95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。95:10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。95:11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。

 この「安息」は、約束の地に入って定住することでした。彼らが神の御声に対して心をかたくなにしつづけたために、彼らは四十年間荒野をさまよいました。そして、その放浪は彼らが安息に入らないようにするための、神の裁きでした。

 同じように四十年という期間によって、神の安息に入れなかった時期があります。主イエスがこの地上に来られた時のことです。主も、「この世代」という言葉をたくさん使われました。そして、主が公生涯を歩まれた約40年後に、紀元70年、ローマ軍がエルサレムを破壊して、ユダヤ人は世界に散る離散の民となったのです。ユダヤ人は主がおられた時、また使徒たちが宣教の働きをしていた時、その福音の言葉を拒み続けました。

 ヘブル人への手紙3章と4章に、この箇所が引用されています。そして注釈が加えられています。ここの詩篇の7節の「きょう、もし御声を聞くなら」という言葉は、当時のイスラエルではなく今の私たちに語られている。そして安息も、約束の地ではなく、私たちが入る天国のことを指していることを意味しています。そこで必要なのは御声を聞くことです。

 ヘブル書4章2節に、非常に大切な言葉があります。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」御言葉が信仰によって結びつけられなかった、ということです。御言葉を学んでも、もしそれが信仰によって、神の御声として聞いていなかったら、私たちも安息の中に入れないという警告なのです。

 多くの人が、「いつか信じればよい。」と考えます。けれども考えてみてください、誰かに「ねえ、こっちに来て。」と呼ばれた時に、「そうだな、一年後に行ってみよう。」としたらどうでしょうか?一年後にそっちに行って、「ほら、君の言うとおりにしたじゃないか。」と言っても、その従順はまったく意味がありません。その時にしなければいけないものだからです。

 これが神の御言葉です。私たちが神の御声を、聖霊によって、聖書の言葉を通して聞きます。それは、その時に神が語りかけておられるものであり、その時機を逸したら、もうそれで終わりなのです。もちろん神は何度も語りかけてくださいます。荒野にいたイスラエルに対するように、また主が地上におられたとき、主と使徒たちがユダヤ人に何度も語りかけたように、です。けれども、その声を拒む度に、私たちの心はかたくなになり、もっと聞き従うことが難しくなります。そしてついに、聞き従うことができなくなるほど固くなる時がやって来るのです。だから、「きょう、御声を聞くならば」なのです。

2A 宣教の神 96
 第96篇は、「宣教の詩篇」と呼んでいいでしょう。神の良い知らせを告げ知らせることを奨励しています。

1B 全地の神 1-6
96:1 新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。96:2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

 新しい歌をうたう領域は、イスラエルだけでありません。「全地」です。日の昇るところから、その沈むところまでです。

96:3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

 詩篇の中にある大宣教命令です。すべての国々の民の中で、主の栄光、その奇しい業を語り継げます。

 日本はしばしば、福音が十分に伝えられていない宣教地であると言われます。確かに、信じている人が1パーセント未満という、まだまだ福音化される必要のある地です。けれども、私たちがいつまでも、「宣教」という言葉を「欧米や韓国から受けるもの」という意識でいるなら、神さまのビジョンとはかけ離れたところにいます。

 私たちの本拠地はアメリカにあるのでしょうか?いいえ。彼らは、自分たちのところから国々へ福音を伝えなければいけないという神からの命令を受けて、世界のあらゆるところに出て行っています。福音を信じた私たちは、私たちのいるところから国々へ福音を伝えなければいけないという神の命令を受けているのです。

 私たちは神をあがめているなら、自ずと世界の国々への宣教の関心が与えられます。なぜなら、私たちの神は、宣教の神だからです。

96:4 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。96:5 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。96:6 尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。

 国々が拝んでいる神々にはるかにまさって、大いなる方です。そして、神々とまことの神、主との違いは、主は天をお造りになられ、その御座に着いておられるということです。

 異教の神々には、「天」という概念がありません。「天」という言葉を使っていたとしても、それは、地上の領域の事柄だけです。「天」とは永遠の領域、この自然界、物質の世界がすべて崩れ、溶けて、なくなっても、なお微動だにしない堅固な空間です。

 日本の人たちに聞いてみてください、「死んだらどうなるの?」答えは、「そんなもの知らない。今の生活で精一杯だ。」と。だから、今の生活の幸福について約束しているものには飛びつきますが、死んだ後、いや死ぬ前から存在している「天」についての関心が非常に薄いのです。それは、異教の神々を拝んでいる信仰から来ています。しかし主は天をお造りになられ、その尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にあります。

2B 主へのささげ物 7-9
96:7 国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。96:8 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。96:9 聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。

 神の良き知らせを聞いた国々が、今度は自分たちが神を信じて、神に仕え、神にささげ物を持ってくる預言です。世界のあらゆるところで、主の御名があがめられている今の時代に、この預言が成就しています。

3B 天地の喜び 10-13
96:10 国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」

 国々への神の働きかけは、宣教だけにとどまりません。国々に対して、再び戻ってくる、再臨にまで至ります。

96:11 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。96:12 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。

 何か、わくわくしますね。主が戻って来られるとき、自然界がこのように喜び、こおどりし、鳴りとどろきます。これはもちろん、詩的な表現です。C.S.ルイスの「ナルニア物語」には、動物や木々、花までが擬人化され、人間のように動き、言葉を話していますが、もちろん実際にはそのようにはなりません。けれども、そのような躍動的な、わくわくするような喜びが、自然界にみなぎることは確かです。

 ローマ書8章19節以降に、今の自然界の状態が描かれています。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(19-22節)」アダムが罪を犯したために、自然界は虚無に服しました。私たちがみる自然は、その美しさと同時に、恐ろしさを秘めています。天災があります。また動物は弱肉強食の世界に生きています。しかし主が戻ってこられたら、これらすべての災いや厳しさから解放されます。

96:13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。

 パウロは、一日中、議論にふけっているギリシヤのアテネの人々に、このように告げました。「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒17:31」イエス様が死者の中からよみがえりました。これは、我々が拝んでいる神々はむなしいもので、生きた神がおられることを証明するものです。そして復活は、主がこの世界を義によって裁く、力と権能を持っておられることを意味します。

3A 裁き主 97
 そして第97篇は、裁きの詩篇です。主が戻って来られるときに、全地を裁かれることを預言しています。

1B 天地の震え 1-7
97:1 主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。97:2 雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。97:3 火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。97:4 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。97:5 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。97:6 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。

 天が主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る、というのは、イエス・キリストが地上に戻って来られることを指しています。その時に、天地が震えます。雲と暗闇、火、稲妻がその特徴であり、また全地がろうのように溶ける、とあります。シナイ山に主が降りて来られた時、このような自然現象が起こりましたが、終わりの時には世界規模で起こります。

97:7 偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

 生きていないはずの神々に対してまで、ひれ伏すことを求めています。神々は、もともとの意味は、自分を突き動かす主要な情熱です。これなしには生きていけないと思って、頼っているものです。多くの人は「私は神を信じていない。」と言いますが、それは嘘です。何かを神にしています。その神があるから、まことの神であり主であるイエス・キリストを信じないさい、と言ってもかたくなに拒みます。

 けれども、自分が頼っていたものがいかに頼りないか、空しいかが、主が戻って来られる時に明らかにされます。そして、その時には強制的に、イエス・キリストのみが主であることを認めざるを負えなくなります。

2B シオンの喜び 8-9
97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。

 この箇所を読む人は、イスラエルに対して、エルサレムに対して関心を持たざるを得ません。聖書には至るところで、終わりの時はエルサレムが世界の国々によって攻められるが、主が戻ってこられてそれを救われる預言が書かれているからです。

 いや、これは旧約聖書の話だ、新約の時代になってこれは天国のことを現しているのだ、と言う人たちがいます。けれども新約聖書、福音書におけるイエスさまの終わりの時の話にも、物理的なエルサレム、物理的なユダの地方の話が出てきて、物理的なユダヤ人が世界中から戻ってくる話が出てきます。

 私たちの神は、世界に関心を持っておられます。宣教の神です。そしてイスラエルをご自分のひとみのように守っておられます。イスラエルの神です。そして、そのイスラエルへの契約をイエス・キリストを信じる異邦人にまで及ぼしてくださいました。それが教会です。

3B 聖なる御名 10-12
97:10 主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

 聖徒たちへの呼びかけです。「悪を憎め」です。とても大事ですね。私たちが罪を犯しそうになっている時、誘惑を受けている時、心に留めていくべき言葉です。怒り、これを憎んで退けてください。憎悪、これを悪とみなして、憎んで退けてください。不安、これも悪です。憎んで退けてください。

 そうしたら、主が私たちの命を守ってくださいます。悪者どもの手から救い出してくださいます。

97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。97:12 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 光は、聖さと関わりがあります。主がこの世を裁かれることを思いながら、私たちがいつも聖さの中にとどまっている必要があります。主を畏れかしこみながら生活します。

4A 奇しい方 98
 そして次の詩篇は、主が地上に戻ってこられた直後のこと、その勝利を歌っています。

98 賛歌

1B 救い御業 1-3
98:1 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。98:2 主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。98:3 主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。

 「奇しいわざをなさった」「勝利をもたらしたのだ」「義を現わされた」、みな完了形です。主がイスラエルの救いのために戻ってこられて、世界の王となられている中で、そのすばらしい業を褒め称えている預言です。

2B 全地の喜び 4-9
98:4 全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。98:5 立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。98:6 ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。98:7 海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。98:8 もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。

 すごいですね、喜び踊っていますね。やはり、熱狂的に歌っているクリスチャンが何かおかしいかのごとく見る見方は、おかしいですね。私自身は、踊ったり、歩き回って歌ったりする方ではないですが、心の中では踊って騒いでいます。

 元祖のユダヤ人たちを見たら、やはり彼らは踊るのが好きです。ユダヤ教徒たちは、例年の祭りの度に、腕を組んで、輪になって、何時間も歌って踊ります。「マイム・マイム」の歌を知っていますね。あれはヘブル語「水」という意味で、荒野から水が湧き出るイザヤの預言を歌っている、イスラエルの歌です。あのような類の歌を、歌い続けます。

98:9 確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。

 ここは完了形ではなく、将来の希望の言葉になっています。「さばくために来られる。」です。このように、将来のことを完了したもののようにして歌っています。しかしこれが、私たち永遠の神を信じている者の賛美です。将来のことであっても、それは主にあってすでに成し遂げられたことであって、私たちもその確信に基づいて、喜び賛美するのです。

5A 御座に着かれる方 99
 このように、主は王として戻ってこられました。そして次の99篇は、その後の神の国についての預言が書かれています。主が御座に着かれる預言です。

1B 聖なる御名 1-5
99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。

 ケルビムは、聖書の最初のところから登場する御使いです。エデンの園において、アダムとエバがそこを出なければならないとき、いのちの木の前で炎の剣を持ってそれを守りました。

 そして、出エジプト記には、幕屋の至聖所にある贖いの蓋に登場します。至聖所を入ると、そこに契約の箱があります。その上に贖いの蓋が置いてあります。贖いの蓋はすべて金で出来ており、その蓋の一部として二人のケルビムがいます。二人が向かい合って、翼を広げて贖いの蓋を覆っています。そして彼らの顔も下を向いて贖いの蓋を見ており、ちょうどひれ伏している姿勢です。

 そして、そのケルビムの間からわたしはイスラエルに掟を与えると主は言われました。つまり、そこに主ご自身がおられるということです。

 幕屋は天の模型であり、実際の聖所は天にあることがヘブル書で説明されています。黙示録4章を見ますと、そこに神の御座がありすぐ回りに、四人の生き物がいます。その描写は、エゼキエル書1章に出てくるケルビムの姿と同じです。ケルビムはこのように、主が着座されているすぐそばにいて、主に仕えている天使です。

99:2 主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。99:3 国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。

 シオンは、エルサレムにある山ですね。そこに主は神殿を造られます。そしてその座に着かれて、全世界の国民の礼拝をお受けになります。

 その名は「」です。何の欠陥もなく、他のあらゆるものから別たれた状態が聖です。覚えていますか、主が聖なる方としてシナイ山に現われた時、そのふもとには杭が打たれました。なぜなら、人間でも動物でも、それより近くシナイ山に近づいたら、たちまち死ななければならないからです。それだけ神は聖い方であり、私たちはそのままの姿で近づくことはできない存在です。

 主が聖なる方であり、着座されている御座があることを知ることはとても大切です。イスラエルの民は、高き所に祭壇を作って主をあがめていたことが記録されています。そこで偶像ではなくてまことの神、ヤハウェを礼拝していたとしても、主が命令されたとおりに礼拝しなかったことで落ち度があります。

 言い換えれば、自分の方法で神を礼拝することはできない、ということです。神がお定めになったとおりに、また神が命令されているとおりに自分を従わせていなければ、神をあがめているつもりが、自分の願いや欲を満たすところに変わってしまうのです。

 私たちは肉の欲を持っています。罪の性質を持っています。だから、聖さではなく汚れのほうに向かう傾向を持っています。けれども私たちが、主が聖なる方であり、御座に着かれていることを知るとき、自分のすべてをかなぐり捨てて、ただ主のみを礼拝し、主にひれ伏すことができます。

99:4 王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。99:5 われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。

 御座の足台のところにひれ伏します。覚えていますか、イエス様がパリサイ派のシモンの家で食事をされているとき、一人の女が主に近づいて、主の御足のところで涙を流し、その涙が御足に落ちて、彼女は自分の髪でそれを拭いて、また口づけをしました。これは、完全に自分を低くして、相手に敬意を払っている姿です。

2B 祈りへの答え 6-9
99:6 モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

 主は聖なる方として人々に臨まれましたが、それは誰もこの方に近づくことはできないという意味ではありません。モーセはいつもシナイ山に上り、主に会いに行きました。顔と顔を合わせて神と語り合いました。アロンも大祭司として、至聖所に入り、主に会いに行きました。サムエルもそうでした。彼は主の御名を呼び求めて、イスラエルのために執り成しの祈りをささげました。そして主が、イスラエルがペリシテ人に打ち勝つようにしてくださいました。

99:7 主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。

 モーセ、アロン、サムエルは祈っただけでなく、祈ったことによって主に語られたことを守りました。祈ったのに、祈りの答えをもらったのに、その答えに応答しなかったらおかしいですね。だったら、最初から祈らなければいいです。けれども彼らは、主から語られたことに聞き従いました。

99:8 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。

 すばらしいです。主は聖なる方であると同時に、赦しの神です。人が神に近づくことができる方法を与えてくださいました。それはまず信仰です。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6」とあるとおりです。モーセは神を信じて、その言われることを受け入れていたので、神との接触をすることができました。

 また血を流すことによって、神に近づくことができます。血はいのちを表わしています。自分の罪によってもたらされる死を、代わりに血を流す存在がいることによって、神はその罪を赦してくださいます。旧約の時代は動物の血でしたが、神の御子ご自身の血が流されることによって、私たちの罪は完全に取り除かれました。

 けれども罪を赦すからといって、罪を許容しておられるのではありません。「しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。私たちがこの体で行ったことに対しては、報われる方であることを知ることはとても大事です。その真理に基づいて、私たちは神にあわれみを請い、罪を赦していただくのです。

99:9 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。

 エルサレムに来て、主の前でひれ伏すだけでなく、世界の他のところにいてもエルサレムに向かってひれ伏します。

6A 感謝すべき方 100
 そして最後の詩篇です。ここでは、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。

100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。

 喜びながら主に仕えます。私たちが奉仕をするときに忘れてならないのは、喜んで仕えるその心です。もちろん、奉仕には責任があります。しなければいけないものがあります。けれども、もし奉仕が義務的になっていれば、喜んで主に仕えているという意識がなければ、むしろやらないほうがましです。献金など、ささげ物についても同じ事が言えます。神は、喜んで与える者を愛されます。

100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。

 神殿には内庭と外庭があります。その仕切りの壁があります。門があり、そこから中に入ります。入るときは、感謝しながら、賛美しながら入りなさい、と命じられています。

 感謝をすることは本当に大切ですね。アメリカには感謝祭がありますが、それはピューリタンから始まった行事です。アメリカ大陸に入ってきたのはいいですが、その後、多くの困難のゆえに死んだ人も出てきました。彼らはそれらを主にあって耐え忍び、何度も断食と祈りをささげました。そしてまたある日、指導者が祈りと断食をよびかけましたが、ある人がこう言いました。「私たちはこれまで、困難や問題ばかりが気になって、祈りと断食をしてきた。けれども、感謝すべきこともあるではないか。私たちも植民地は強められ、収穫物も多くなり、何よりも私たちは国家の統制から離れて、主を信仰する自由が与えられているではないか。この日を、祈りと断食ではなくて感謝の日にしよう。」と言いました。

 確かに困難は多いです。けれども私たちは、目の前にあるものばかりを見ることなく、もっと感謝するべきことに目を留めて、主にお仕えします。

100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 喜んで、感謝して主に近づけるのは、主がいつくしみと恵みがあるからです。


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2015年9月18日 (金)

「義と認められた私たち」(聖書のメッセージ)

ロゴス・ミニストリー

ローマ人への手紙第5章

ローマ人への手紙5章 「義と認められた私たち」

 
アウトライン

1A 大いなる神の栄光 1-11
 1B 神との平和 1-8
 1C 恵みへの導き 1-5
 2C 愛 6-8
 2B 御怒りからの救い 9-11
2A 満ちあふれる恵み 12-21
 1B アダムとの違い 12-17
 1C 入り込んだ罪と死 12-14
 2C 恵みの賜物 15-17
 2B アダムと似た点 18-21

本文

 ローマ人への手紙5章をお開きください。ここでの題は、「義と認められた私たち」です。

 4章において、私たちは、アブラハムの信仰の足跡にならうことについて学びました。アブラハムは、行ないによらず、割礼にも律法にもよらず、ただ神を信じたことによって義と認められました。彼の神への信仰は、イサクが死者の中からよみがえるという確信として現われました。そして、同じように、私たちは、イエスを死者の中からよみがえらせた神を信じることによって、義と認められる、とパウロは言いました。そして、5章に入ります。ここでパウロは、私たちは義と認められたあと、どうなるのか、その状態について語っています。

1A 大いなる神の栄光 1-11
1B 神との平和によって 1-8
1C 恵みへの導き 1-5
 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 義と認められたことによって、私たちは、あらゆる霊的祝福を受けます。その一つは、神との平和を持っていることです。神のみこころに逆らっている罪人は、神と敵対関係にあります。言いかえると、神と戦争状態にあります。ですから、神はご自分の義によって私たちをさばき、滅ぼしてしまわなければなりません。けれども、私たちは義と認められたので、神との間に平和ができあがりました。ですから、パウロは8章において、「神が私たちの味方であるなら、だれが私に敵対できるでしょう。(31)」と言っています。神は、もはや私たちを咎めたりしておられないのです!ちなみに、神との平和は、神の平安とは異なります。神の平安は私たちが経験するものであり、恐れや思い煩いから自由にされている状態のことを指しますが、神との平和は、もうすでに築かれている神との関係です。

 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、

 
導き入れられた、とありますが、神のみもとに導き入れられる、ということであります。義と認められたことによって、神の御前に大胆に近づくことができる、と言うことです。私たちは、ありのままの姿では、決して神に近づくことはできません。罪があるからです。罪は私たちを神から引き離して、神さまのおられるところに行くことができなくしています。けれども、もうすでに罪は取り除かれ、キリストの義を身にまとっているのですから、神への道は大きく開かれています。パウロは、エペソ人に手紙を書いて、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(
3:12」と言いました。ですから、自分の心にあることをすべて注ぎ出して、すべてを神に知っていただくような、大胆な祈りをすることができるのです。

 神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 
大いに喜んでいる、という言葉は、爆発的な喜びを指しています。心が張り裂けんばかりの喜びです。神の栄光を望んで、喜びおどるのです。私たちに与えられているもっとも大きな祝福は、神の栄光を見ることです。神のすばらしさ、神のすべてのご性質を見ることが許されました。これは、主イエス・キリストが再び私たちのために来られるときに実現します。パウロは、「
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。(Ⅰコリント13:12」と言いました。使徒ヨハネは、「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Ⅰヨハネ3:2」と言っています。私たちが、主イエスさまをはっきりと見て、この方のふところのなかに入る日は、確実に近づいているのです。

 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 
義と認められたことによって、この世における患難さえも喜ぶようになります。この真理は、理解するのにとても大切なことであります。患難を喜ぶというところで、キリスト教は、他の宗教と区別されます。私たちに何か良いことが起こるから、信じるに値すると私たちは考えますが、キリスト教では、患難や迫害がともなうことを教え、それでも、いや、それだからこそ喜びなさい、喜びおどりなさい、と言われています。なぜ、このような違いがでるかと言いますと、今一節で読んだように、私たちに与えられた祝福は、神との人格的な関係だからです。神との平和を持つという人格的な関係が祝福なのであり、私たちがこの世で得をすることではないからです。私たちは患難にあうときに、神との関係を一段と深めることができます。神は、私たちの苦しみと一体化してくださり、苦しみの中で神の慰めと愛を体験できるのです。また、患難がクリスチャンにとって喜ばしいのは、地上ではなく天における報いだからです。二節に書いてある神の栄光をじかに見ることができるのは、天においてであります。天国がいかにすばらしいところなのか、栄光に富んでいるところなのか、そのことを思い、喜び、神の国の到来を待ち焦がれる中で、この地上では患難にあうのです。ですから、私たちに必要なのは、自分の心と思いの中で、神の国がどのようなところであるか、はっきりと見ていることなのです。そこに、義と認められた者たちが受けるべき祝福があるのです。


 そして、パウロは、患難を受けるところから、この希望が生み出されるにいたるまでの過程を語っています。患難にあうと、まず忍耐が生み出されます。これは、無意味にがまんすることではなく、神とキリストを見つめることに他なりません。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3」とヘブル書にあります。そして、忍耐によって品性が生み出されます。この品性は、金属が火の中に入れられて、その真価が試されることを意味します。私たちは忍耐しているうちに、神の性質が私たちのうちにかたち造られていくのです。そしてこの練られた品性によって、希望が生み出されるのです。

 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 
天に蓄えられている希望は、ペテロが言っているように、決して「朽ちることも、汚れることも、消えていくことも」ありません(Ⅰペテロ
1:4)。けれども、患難にあっているときに、私たちだけでは、その重さに耐え切れなくなり、つぶれてしまいます。しかし、私たちには、聖霊が与えられています。ご聖霊が私たちのうちに宿ってくださることによって、私たちはこの希望の中に生きることができるのです。そして、ご聖霊は、私たちの心に神の愛を注いでくださいます。

2C 愛 6-8
 そして、神の愛は、どのようなかたちで私たちに示されたかを、パウロは次に語ります。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに愛を示されました。死ぬほどに愛してくださったのです。このような話しは、人間の中でも聞きます。父親が、息子のために自分のいのちを捨てる、という類のものです。けれども、これら人間の愛とは比べることができないほど神の愛が深いことを、パウロはここで説明しています。つまり、私たちが弱かったときに、不敬虔であるのに、罪人であるのに、キリストが死んでくださったのです。私たちの側には、何ら愛すべき特徴や原因はないのに、いのちを捨ててくださいました。この神の深く、広い愛があるために、この愛を聖霊が注いでくださっているために、私たちは、神の栄光を待ち望む希望を抱きつづけることができるのです。


2B 救いによって 9-11

 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 
ですから、という言葉から始まっていますが、一節の、「神との平和を持つ」ことに戻っています。私たちが神との平和を持っているので、ここでパウロが言っているように、神の怒りから救われます。一章において、神の怒りが、人々を良くない思いに引き渡されることによって現れていることを学びましたが、ここでの神の怒りは、それとは異なります。ここの怒りは、大患難時代に、神がこの地上に下される怒りであり、また、人間が死んでから永遠の地獄に送られるときの怒りであります。そして、パウロは、怒りから救われるのは、「なおさらのこと」であると言っています。これは対比を表しています。私たちが罪人であったときにさえ、神は、私たちに怒りを下すことなく、キリストにおいて怒りを現わしました。けれども、今、私たちは義と認められています。だから、なおさらのこと、神の怒りから救われるのは明らかである、ということです。


 義と認められるということは、これほどまでに、私たちを高い位置に着かせているのです。義と認められることは、単に罪赦されることではなく、まさにキリストのように正しくみなされている、ということです。ですから、神がキリストに与えておられる立場を、私たちにも分け与えられる、という、とてつもない特権が与えられていることでもあります。

 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 
再び、「なおさらのこと」が出てきました。私たちが敵であったときに、神は御子の死において私たちと和解してくださいました。しかし、御子は死者の中からよみがえられ、今は生きておられます。御子が死なれたことによって、神が和解してくださったのだから、生きておられる御子は、私たちのために天から来られて、私たちを、今の悪い世から救い出してくださるのは、なおさらのことなのです。テサロニケ人への第一の手紙に、このすばらしい救いについてパウロが語っています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(Ⅰテサロニケ
4:16-17

 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 
パウロはふたたび、神を喜んでいる、と語っています。爆発的な喜びのことです。ここで、「神を」喜んでいる、と書かれてあることに注目してください。自分に良いことが起こったり、周りの状況が良くなったことを喜ぶのではなく、神ご自身を喜ぶのです。私たちには、良いことだけではなく、悪いことも起こります。けれども、神に目を向けるとき、神のすばらしさを見るときに、神がいかに私たちを愛してくださったかを知るときに、心に喜びが涌き出てきます。周りの状況には、喜ばせるようなものがないのに、私たちは喜ぶことができるのです。それは、神を喜んでいるからです。


2A 満ちあふれる恵み 12-21
 このように、私たちが、信仰によって義と認められることによって、神を大いに喜ぶことができるという祝福があることがわかりました。12節からは、義と認められることによって、恵みに満ちあふれることができる祝福について書かれています。

1B アダムとの違い 12-17

1C 入り込んだ罪と死 12-14
 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。

 
パウロは、「そういうわけで」と言っていますが、これは、ずっとさかのぼって、3章
23節にまで戻ります。「すべての人は罪を犯した」とパウロが言いましたが、そういうわけで、罪が世界に入り、罪によって死が広がった、とつながるのです。パウロはこれから、罪の性質に焦点を当てて語りはじめます。罪を犯すという罪の行為の前に、アダムから受け継がれてきた罪の性質がある、とパウロは述べています。これは、生まれながらにして持っている性質であり、最初の人アダムから子孫へ感染して伝わっている罪であります。ですから、私たちが罪を犯すのは、罪人だからであります。生まれながらの罪の性質を持っているので、罪を犯すのです。罪を犯したから、罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。そして、罪は必ず死をもたらしますので、死もすべての人に広がります。

 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

 
罪は、律法がなければ認められません。罪とは、神の言われたことに反することを行なうことだからです。ですから、モーセに律法が与えられるまでは、罪を罪と認めることができませんでした。けれども、モーセに律法が与えられる前にも人々は死んでいたので、罪があったことが分かります。したがって、アダムのように罪を犯さなかったのもかかわらず、アダムが罪を犯したことによる報酬を、私たち子孫も受けることになるのです。「善悪の木からの実を食べてはならない」という神のおきてに背いたその結果を、アダムの子孫である私たちも被らなければいけません。私たちは、アダムとともに、死んで、死んだ後に神のさばきを受けるという運命の中に入っている、というのがパウロの主張です。そうすると、私たちは、「ひどすぎる。アダムが行なったことなのに、私たちまで迷惑を被っているのか。」と考えるかもしれません。けれども、その不満は、アダムがキリストのひな型であることに気づくときには、なくなってしまいます。私たちは、罪と死においてアダムと一体化している一方で、義といのちにおいて、キリストと一体化しているのだ、というのがパウロがここで言いたいことなのです。つまり、キリストが行なわれた義が、そのような義をまったく行なっていないもの者たちにまで感染して、義といのちが与えられる、という、とてつもない恵みの中に入るのです。たった一回、キリストがこの地上で行なわれたことが、キリストを信じる者すべてに波及します。


2C 恵みの賜物 15-17

 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

 パウロは、アダムがキリストのひな型であると言いましたが、もちろん、アダムとキリストの間には相違点があります。パウロは、類似点を語るまえに、まず相違点について語りはじめます。初めに、アダムは違反を行なったけれども、キリストにおいては恵みの賜物が満ちあふれる、ということです。一人の人が行なったことが、一気に広がりました。原発で働いている人の、たった一つの操作ミスによって、大ぜいの人が放射能をあびて死んでしまう可能性があるように、アダムの違反によって、多くの人が死んだのです。けれども、神においては、キリストが行なわれたことによって、私たちがまったく何も行なっていないので、そのキリストが行なわれたことにともなう祝福が、怒涛のごとく私たちに押し寄せる、というものなのです。ある小国において、原油が発見されて、その国の住民全体がまったく働かなくても裕福に暮らせるほど潤いがもたらされるように、キリストが行なわれたことによって、私たちに祝福が満ちあふれます。しかも、パウロは、「それにもまして」と言っています。たった一人の人間が多くの人を死にいたらしめるほど影響力を持っているのなら、神とキリストが行なわれたことは、どれほど私たちに影響を与えて、恵みに満たしてくださるだろう、とパウロは言っているのです。恵みは、罪と死に対して、勝ち誇っているのです。


 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

 
パウロは、ふたたび、アダムとキリストとの間にある相違点をあげています。アダムによって私たちにもたらされたのは、罪に定められることです。人は死ぬことと、死後に神にさばかれることが定まっています。アダムによって、みなが地獄に行くことが定められてしまったのです。けれども、キリストによっては、義と認められることがもたらされました。罪とは大きな力を持っており、二つ、三つと言わず、たった一つの違反で死罪にあたります。他にどんなに良い行ないをしていたとしても、たった一つの罪で十分なのです。しかし、キリストにおいては、たった一つの罪どころか、私たちが犯した罪のすべてを、あの十字架の上で背負ってくださいました。イエスさまは、あなたのこの罪のために死んでくださったけれども、あの罪を犯しちゃったら、もうだめだね。地獄行きさ、とはならないのです!私たちは、すべての罪において、はっきりと、神の前では無罪判決が出ていると言うことができます。


 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

 アダムが行なったことによって死がもたらされたけれども、イエス・キリストの場合は、いのちがもたらされました。アダムの違反がもたらした影響力は、とてつもなく大きいものでした。全人類が死に至るという影響力と確かさを持っていました。人間なら、人は必ず死ぬというほどはっきりしていることはありません。けれども、パウロはここでも、「なおさらのこと」と言っています。アダムという人間でさえ、これだけのことをすることができたのだから、神であられる方は、なおさらのこと影響力を与え、より確実なことを行なわれるのだ、とパウロは言っているのです。人が死ぬよりも、私たちが義と認められ、永遠の命が与えられ、神の国を相続することのほうが確実だ、と言うのです。すばらしいですね。

2B アダムと似た点 18-21
 こうしてアダムとキリストとの相違点を話したうえで、なぜアダムがキリストのひな型であるか、その類似点を次から話します。

 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

 アダムとキリストが似ていたのは、一つの行為を行なったことです。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行ないました。それによって、すべての人が罪に定められました。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれました。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになります。


 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 
もう一つの類似点は、影響を受けた人についてです。「多くの人」とあります。イエスさまは、ただ一度、死なれたわけですけれども、それは、ご自分を信じるすべての人に及びます。アダムの不従順によって、見事にすべての人が罪人とされました。同じように、キリストの父なる神への従順によって、キリストを信じる者は、だれひとりとして罪人のままでいることはありません。ここで、「義人とされる」とあります。未来形になっています。義と認められる、あるいは、正しいと宣言されることは、もうすでに起こりましたが、実際に義人になるのは、主が再び来られるときを待たなければなりません。そのときに、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者とされるのです。ある人々は、イエス・キリストを信じている者であっても、御霊に満たされていなければ、主が来られたとき取り残される、と教えます。しかし、それは、主がなされた、尊い贖いの御業を理解していないからです。アダムによって罪がもたらされたのと同じぐらい、いや、それ以上に、私たちが義人とされることは確かなのです。


 そして次に、すばらしいことばがあります。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 罪が増し加わるところに、恵みが満ちあふれました。満ちあふれたのであり、罪は恵みの中で飲みこまれてしまったのです。私たちがどんなに罪を犯したとしても、私たちが自分で赦すことのできない、ひどい罪を犯したとしても、そこには、その罪の力を完全に打ち消し、さらに義といのちで満ちあふれさせる恵みがあるのです。

 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

 
アダムとキリストにある最後の類似点は、支配する力です。アダムの罪がもたらした死は、だれがどうもがいても免れることのできない支配力を持っています。同じように、信仰によって義と認められた者たちが、永遠のいのちを得ることは、だれがどう反対しても、取り消すことのできない支配力を持っています。


 ですから、私たちが義と認められることは、このあふれるばかりの恵みの中に入ることであります。恵みは、決して私たちの失敗によって打ち消されるものではありません。罪に神にさばかれるよりも、義と認められていることは確かなのです。また、死ぬことよりも、よみがえって永遠のいのちを持つことのほうが確かなのです。たったひとりの違反によって、これだけの影響が出たのだから、ましてや、神がキリストにおいてしてくださっていることに、影響力はないとは決して言えないのです。

 私たちの喜びは、神ご自身にあります。恵み深い神と平和を持ち、この神の御胸に飛び込んでいくことであります。私たちは、どれだけ神のみもとに走っていっているでしょうか。「この小さき者のようにならなければ、神の国に入ることはできません。」とイエスさまは言われましたが、私たちはどれだけ、子どもが父親の胸に飛び込んでいくように、神のみもとに近づいているでしょうか。もう、神との隔ての壁は完全に取り壊されているのです。今まで、私たち罪の中に閉じ込めて私たちを苦しめた悪魔は、キリストのみわざにより、完全に敗北し、退散しているのです。私たちには、このすばらしい父なる神との出会い、主イエス・キリストとの出会いを、天においてすることができます。この望みによって私たちが生きるとき、私たちはこの世における患難をも喜び、その患難が忍耐を生み、イエスさまのご性質が私たちのうちで形づくられ、そのような中で、御国への希望はますます大きくなっていきます。当然のことながら、私たちは神の怒りから救われます。私たちが罪人であったときでさえも、神はキリストを死に渡されることによって、私たちを愛してくださったのですから。パウロのように、胸がはりさけるほどの喜びで、みなさんも喜んでください。

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2015年8月23日 (日)

2015年8月23日今日の聖書の言葉

今日の日曜礼拝では中心はクリッシャンでも天国に行けない人がいるという事でした。



コリント人への第一の手紙(口語訳)


6:9

それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

6:10

貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

6:11

あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。




ガラテヤ人への手紙(口語訳)


5:16

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

5:17

なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

5:18

もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

5:19

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

5:20

偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

5:21

ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

5:22

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

5:23

柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

5:24

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

5:25

もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。



ペテロの第一の手紙(口語訳)


第1章

1:1

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、

1:2

すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

1:3

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、

1:4

あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。

1:5

あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。

1:6

そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。

1:7

こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

1:8

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。

1:9

それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

1:10

この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。

1:11

彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。

1:12

そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖 霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事 である。

1:13

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。

1:14

従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、

1:15

むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

1:16

聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

1:17

あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。

1:18

あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、

1:19

きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

1:20

キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。

1:21

あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。

1:22

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。

1:23

あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。

1:24

「人はみな草のごとく、
その栄華はみな草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。

1:25

これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。



ローマ人への手紙(口語訳)


第15章

15:1

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。

15:2

わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。

15:3

キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。

15:4

これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

15:5

どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、

15:6

こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

15:7

こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。

15:8

わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、

15:9

異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。

15:10

また、こう言っている、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。

15:11

また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。

15:12

またイザヤは言っている、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。

15:13

どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

15:14

さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。

15:15

しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。

15:16

このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。

15:17

だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。

15:18

わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、

15:19

しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

15:20

その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。

15:21

すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。

15:22

こういうわけで、わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げられてきた。

15:23

しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、―

15:24

その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

15:25

しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。

15:26

なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。

15:27

たしかに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。

15:28

そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う。

15:29

そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じている。

15:30

兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。

15:31

すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、

15:32

また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。

15:33

どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アァメン。



ヨハネによる福音書(口語訳)


14:15

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

14:16

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

14:17

それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

14:18

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

14:19

もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。

14:20

その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

14:21

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。



マタイによる福音書(口語訳)


24:27

ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。

24:28

死体のあるところには、はげたかが集まるものである。

24:29

しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

24:30

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

24:31

また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

24:32

いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。

24:33

そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

24:34

よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。

24:35

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。

24:36

その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

24:37

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。

24:38

すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。

24:39

そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

24:40

そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。

24:41

ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

24:42

だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

24:43

このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。

24:44

だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。



エゼキエル書(口語訳)


第36章


36:1

人の子よ、イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け。

36:2

主なる神はこう言われる、敵はあなたがたについて言う、『ああ、昔の高き所が、われわれのものとなった』と。

36:3

それゆえ、あなたは預言して言え。主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたを荒し、四方からあなたがたを打ち滅ぼしたので、あなたがたは他の国民の所有となり、また民の悪いうわさとなった。

36:4

それゆえ、イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と、丘と、くぼ地と、谷と、滅びた荒れ跡と、人の捨てた町々、すなわちその周囲にある諸国民の残った者にかすめられ、あざけられるようになったものに、こう言われる。

36:5

主なる神はこう言われる、わたしはねたみの炎をもって、他の国民とエドム全国とに対して言う、彼らは心ゆくまで喜び、心に誇ってわが地を自分の所有とし、これを奪い、かすめた者である。

36:6

それゆえ、あなたはイスラエルの地の事を預言し、山と、丘と、くぼ地と、谷とに言え。主なる神はこう言われる、見よ、あなたがたは諸国民のはずかしめを受けたので、わたしはねたみと怒りとをもって語る。

36:7

それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしは誓って言う、あなたがたの周囲の諸国民は必ずはずかしめを受ける。

36:8

しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。

36:9

見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。

36:10

わたしはあなたがたの上に人をふやす。これはことごとくイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。

36:11

わたしはあなたがたの上に人と獣とをふやす。彼らはふえて、子を生む。わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す。その時あなたがたは、わたしが主であることを悟る。

36:12

わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。

36:13

主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたに向かって、『あなたは人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる』と言う。

36:14

あなたはもはや人を食わない。あなたの民に重ねて子のない嘆きをさせることはないと、主なる神は言われる。

36:15

わたしは重ねて諸国民のはずかしめをあなたに聞かせない。あなたは重ねて、もろもろの民のはずかしめを受けることはなく、あなたの民を重ねてつまずかせることはないと、主なる神は言われる」。

36:16

主の言葉がわたしに臨んだ、

36:17

「人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった。

36:18

彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、

36:19

彼らを諸国民の中に散らしたので、彼らは国々の中に散った。わたしは彼らのおこないと、わざとにしたがって、彼らをさばいた。

36:20

彼らがその行くところの国々へ行ったとき、わが聖なる名を汚した。これは人々が彼らについて『これは主の民であるが、その国から出た者である』と言ったからである。

36:21

しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。

36:22

それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。

36:23

わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。

36:24

わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。

36:25

わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。

36:26

わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。

36:27

わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。

36:28

あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。

36:29

わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救い、穀物を呼びよせてこれを増し、ききんをあなたがたに臨ませない。

36:30

またわたしは木の実と、田畑の作物とを多くする。あなたがたは重ねて諸国民の間に、ききんのはずかしめを受けることがない。

36:31

その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。

36:32

わたしがなすことはあなたがたのためではないと、主なる神は言われる。あなたがたはこれを知れ。イスラエルの家よ、あなたがたは自分のおこないを恥じて悔やむべきである。

36:33

主なる神はこう言われる、わたしは、あなたがたのすべての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す。

36:34

荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される。

36:35

そこで人々は言う、『この荒れた地は、エデンの園のようになった。荒れ、滅び、くずれた町々は、堅固になり、人の住む所となった』と。

36:36

あなたがたの周囲に残った諸国民は主なるわたしがくずれた所を建て直し、荒れた所にものを植えたということを悟るようになる。主なるわたしがこれを言い、これをなすのである。

36:37

主なる神はこう言われる、イスラエルの家は、わたしが次のことを彼らのためにするように、わたしに求めるべきである。すなわち人を群れのようにふやすこと、

36:38

すなわち犠牲のための群れのように、エルサレムの祝い日の群れのようにすることである。こうして荒れた町々は人の群れで満ちる。その時人々は、わたしが主であることを悟るようになる」。

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2015年8月17日 (月)

生活の指針が必要な時読む聖書の言葉

生活の指針が必要な時読む聖書の言葉 ローマ人への手紙12章1〜21節

第12章

12:1

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

12:2

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

12:3

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。

12:4

なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、

12:5

わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

12:6

このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、

12:7

奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、

12:8

勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

12:9

愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、

12:10

兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

12:11

熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、

12:12

望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

12:13

貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

12:14

あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

12:15

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16

互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

12:17

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。

12:18

あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

12:19

愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

12:20

むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

12:21

悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。



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創世記15章〜21章

第15章

15:1

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

15:2

アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

15:3

アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。

15:4

この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。

15:5

そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。

15:6

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

15:7

また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。

15:8

彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。

15:9

主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。

15:10

彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。  

15:11

荒い鳥が死体の上に降りるとき、アブラムはこれを追い払った。

15:12

日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。

15:13

時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。

15:14

しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。

15:15

あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。

15:16

四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。

15:17

やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。

15:18

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。

15:19

すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、

15:20

ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、

15:21

アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。

第16章

16:1

アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。

16:2

サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。

16:3

アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。

16:4

彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。

16:5

そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。

16:6

アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。

16:7

主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、

16:8

そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。

16:9

主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。

16:10

主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。

16:11

主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。

16:12

彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。

16:13

そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。

16:14

それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。これはカデシとベレデの間にある。

16:15

ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた。

16:16

ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。

第17章

17:1

アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

17:2

わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。

17:3

アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、

17:4

「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。

17:5

あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。

17:6

わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

17:7

わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。

17:8

わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。

17:9

神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち

17:10

男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。

17:11

あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。

17:12

あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。

17:13

あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。

17:14

割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。

17:15

神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。

17:16

わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。

17:17

アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

17:18

そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。

17:19

神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。

17:20

またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。

17:21

しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。

17:22

神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。

17:23

アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、すべて家に生れた者およびすべて銀で買い取った者、すなわちアブラハムの家の人々のうち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼を施した。

17:24

アブラハムが前の皮に割礼を受けた時は九十九歳、

17:25

その子イシマエルが前の皮に割礼を受けた時は十三歳であった。

17:26

この日アブラハムとその子イシマエルは割礼を受けた。

17:27

またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、彼と共に割礼を受けた。

第18章

18:1

主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、

18:2

目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、

18:3

言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。

18:4

水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。

18:5

わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。

18:6

そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。

18:7

アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。

18:8

そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。

18:9

彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。

18:10

そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。

18:11

さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。

18:12

それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

18:13

主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。

18:14

主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。

18:15

サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

18:16

その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。

18:17

時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。

18:18

アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。

18:19

わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。

18:20

主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、

18:21

わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。

18:22

その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。

18:23

アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。

18:24

たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。

18:25

正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。

18:26

主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

18:27

アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。

18:28

もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。

18:29

アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。

18:30

アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。

18:31

アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。

18:32

アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。

18:33

主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

第19章

19:1

そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、

19:2

言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。

19:3

しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。

19:4

ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、

19:5

ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。

19:6

ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、

19:7

言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。

19:8

わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。

19:9

彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。

19:10

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。

19:11

そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。

19:12

ふたりはロトに言った、「ほかにあなたの身内の者がここにおりますか。あなたのむこ、むすこ、娘およびこの町におるあなたの身内の者を、皆ここから連れ出しなさい。

19:13

われわれがこの所を滅ぼそうとしているからです。人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすために、われわれをつかわされたのです」。

19:14

そこでロトは出て行って、その娘たちをめとるむこたちに告げて言った、「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」。しかしそれはむこたちには戯むれごとに思えた。

19:15

夜が明けて、み使たちはロトを促して言った  「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。

19:16

彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。

19:17

彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

19:18

ロトは彼らに言った、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。

19:19

しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

19:20

あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」。

19:21

み使は彼に言った、「わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。

19:22

急いでそこへのがれなさい。あなたがそこに着くまでは、わたしは何事もすることができません」。これによって、その町の名はゾアルと呼ばれた。

19:23

ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった。

19:24

主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、

19:25

これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

19:26

しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。

19:27

アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、

19:28

ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。

19:29

こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。

19:30

ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。

19:31

時に姉が妹に言った、「わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちの所に来る男はいません。

19:32

さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう」。

19:33

彼女たちはその夜、父に酒を飲ませ、姉がはいって父と共に寝た。ロトは娘が寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:34

あくる日、姉は妹に言った、「わたしは昨夜、父と寝ました。わたしたちは今夜もまた父に酒を飲ませましょう。そしてあなたがはいって共に寝なさい。わたしたちは父によって子を残しましょう」。

19:35

彼らはその夜もまた父に酒を飲ませ、妹が行って父と共に寝た。ロトは娘の寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:36

こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。

19:37

姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。

19:38

妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。

第20章

20:1

アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、

20:2

アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。

20:3

ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」。

20:4

アビメレクはまだ彼女に近づいていなかったので言った、「主よ、あなたは正しい民でも殺されるのですか。

20:5

彼はわたしに、これはわたしの妹ですと言ったではありませんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。わたしは心も清く、手もいさぎよく、このことをしました」。

20:6

神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。

20:7

いま彼の妻を返しなさい。彼は預言者ですから、あなたのために祈って、命を保たせるでしょう。もし返さないなら、あなたも身内の者もみな必ず死ぬと知らなければなりません」。

20:8

そこでアビメレクは朝早く起き、しもべたちをことごとく召し集めて、これらの事をみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。

20:9

そしてアビメレクはアブラハムを召して言った、「あなたはわれわれに何をするのですか。あなたに対してわたしがどんな罪を犯したために、あなたはわたしとわたしの国とに、大きな罪を負わせるのですか。あなたはしてはならぬことをわたしにしたのです」。

20:10

アビメレクはまたアブラハムに言った、「あなたはなんと思って、この事をしたのですか」。

20:11

アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。

20:12

また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。

20:13

神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。

20:14

そこでアビメレクは羊、牛および男女の奴隷を取ってアブラハムに与え、その妻サラを彼に返した。

20:15

そしてアビメレクは言った、「わたしの地はあなたの前にあります。あなたの好きな所に住みなさい」。

20:16

またサラに言った、「わたしはあなたの兄に銀千シケルを与えました。これはあなたの身に起ったすべての事について、あなたに償いをするものです。こうしてすべての人にあなたは正しいと認められます」。

20:17

そこでアブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻および、はしためたちをいやされたので、彼らは子を産むようになった。

20:18

これは主がさきにアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの家のすべての者の胎を、かたく閉ざされたからである。

第21章

21:1

主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。

21:2

サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

21:3

アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。

21:4

アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。

21:5

アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。

21:6

そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。

21:7

また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

21:8

さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。

21:9

サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、

21:10

アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。

21:11

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

21:12

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。

21:13

しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。

21:14

そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。

21:15

やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、

21:16

「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。

21:17

神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。

21:18

立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。

21:19

神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。

21:20

神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。

21:21

彼はパランの荒野に住んだ。母は彼のためにエジプトの国から妻を迎えた。

21:22

そのころアビメレクとその軍勢の長ピコルはアブラハムに言った、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる。

21:23

それゆえ、今ここでわたしをも、わたしの子をも、孫をも欺かないと、神をさしてわたしに誓ってください。わたしがあなたに親切にしたように、あなたもわたしと、このあなたの寄留の地とに、しなければなりません」。

21:24

アブラハムは言った、「わたしは誓います」。

21:25

アブラハムはアビメレクの家来たちが、水の井戸を奪い取ったことについてアビメルクを責めた。

21:26

しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。

21:27

そこでアブラハムは羊と牛とを取ってアビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。

21:28

アブラハムが雌の小羊七頭を分けて置いたところ、

21:29

アビメレクはアブラハムに言った、「あなたがこれらの雌の小羊七頭を分けて置いたのは、なんのためですか」。

21:30

アブラハムは言った、「あなたはわたしの手からこれらの雌の小羊七頭を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」。

21:31

これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。

21:32

このように彼らはベエルシバで契約を結び、アビメレクとその軍勢の長ピコルは立ってペリシテの地に帰った。

21:33

アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。

21:34

こうしてアブラハムは長い間ペリシテびとの地にとどまった。

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2015年8月 3日 (月)

孤独な時読む聖書の言葉

孤独な時読む聖書の言葉を紹介します。



それはヘブル人への手紙 13章5,6節です。



13: 5


    金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」



13: 6


    そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」



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疲れた時読む聖書の言葉

疲れた時読む聖書の言葉があります。



それはマタイによる福音書11章28節〜30節


ーすべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。ー


(「くびき」とは「縛るもの。自由を妨げるもの。」という意味です。)



コリント人への第1の手紙15章58節


ーだから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。ー



ガラテヤ人への手紙6章9,10節


ーわたしたちは正しい行いをすることに疲れはててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日がくるからです。ですから、機会さえあれば、誰に対しても、特にクリスチャンには親切にしましょう。ー



などです。



聖書を読んで力強く生きましょう。



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