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2015年8月28日 (金)

今日の説教(インターネットからの引用)



ダニエル書 2 章 20 節
ヨハネ福音書 17 章 11 節
「救いの御名」
2010・10・31
(説教10441348)
私たちは祈るとき、かならず祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって」
と唱えます。そしてその後で「アーメン」と告白します。私たちはこのことを本当に
大切なこととして受け止めているでしょうか。私たちがキリストの「御名」によって
祈るとはどういうことなのでしょうか。
「キリストの御名によって」という言葉は、もともとのギリシヤ語で申しますなら
“エン・ホノマティ・クリストゥ”という字です。この最初の“エン”は英語の“イ
ン”にあたります。つまり「キリストの御名によって」とは正確には「キリストの御
名の内にありて」という意味です。私たちは「キリストの御名の内にありて」言い換
えるなら「キリストの御名に守られて」祈る者とされているのです。
そこでこのことは、祈りだけではなく、私たちの信仰生活の全体、いや私たちの人
生の全体に言えることです。私たちの全生涯がいつも「キリストの御名に守られて」
生かされ支えられている。その恵みをいつも私たちは与えられているのです。ですか
ら私たちが祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって」と唱えるのは“ただ
習慣だから”
ということではありません。
「私の人生は、
主よ、
あなたの御業の現れる
場所なのです」と告白しているのです。マリアのように「わたしは主の僕です。御言
葉どおり、この身になりますように」とお応えすることなのです。
なによりも今朝のヨハネ伝 17 章 11 節において、
主イエスは私たちのためにこう祈
られました。
「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、
彼らはこの世に残っており、
わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守っ
て下さい。
それはわたしたちが一つであるように、
彼らも一つになるためであります」

この 11 節の主イエスの祈りは3つの部分からなっています。第1に、主イエスは十
字架にかかられて死なれ、
復活されて天の父なる神のもとにお帰りになるということ。
第2に、主イエスが世を去られるのは、弟子たちを御名によって全てのことから守る
ためであるということ。第3に、主イエスと父なる神が一つであられるように、私た
ちもまた堅く主に結ばれているのだということです。
そこで、第1のことは何を意味するのでしょうか。主イエスが十字架にかかられて
死なれ、天の父なる神のみもとにお帰りになるとはどういうことでしょうか?。それ
はヨハネ伝みずからが詳しく語っていますが、主イエスの「栄光」と深く関わってい
るのです。何よりも主イエスは、私たち全ての者のために十字架に死なれ、私たちの
罪を贖われることを「わたしの栄光」とお呼びになりました。
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ふつう私たちが「栄光」という言葉で想像することは自分の栄誉や利益です。しか
し主イエスにとって「わたしの栄光」とは十字架の死のことでした。主イエスは罪人
なる私たちの身代わりとしてご自分の全てを献げたもうことを「わたしの栄光」と呼
んで下さった。栄誉ではなく限りない恥辱を、利益ではなく墓に葬られることを、賛
辞を受けることではなく罵られて死ぬことを「わたしの栄光」と呼んで下さったので
す。主イエスの「栄光」とは、主がお受けになった十字架の「死」と「葬り」のこと
なのです。
すると、どういうことになるのでしょうか。私たちが唯一の救いの御名として告白
するイエス キリストの御名は、

いと高きにいます全能の神の御名であるのと同時に、
それは何よりも私たち罪人の救いのために限りなくご自身を低くされ、世界の罪のど
ん底にお降りになり、死んで下さった主イエス・キリストの御名なのです。つまりこ
の御名は私たちを高みから見下ろす超越者のものではなく、私たちのただ中に降りて
来て下さり、私たちの罪と死の現実の中で私たちを徹底的に担われた救い主、十字架
の主イエス・キリストの御名なのです。
かつて中国でキリスト教に改心し、救われた喜びを告白したある人が、回顧録にこ
う記しました。
「自分は譬えて言うなら、
深い空井戸の底に落ちてしまって、
誰にも気
づかれず死んでゆくだけの存在であった。ある日、井戸に近づく人の声がした。私は
「助けて下さい!」と叫んだ。すると上から覗きこんだのは釈迦如来であった。釈迦
如来が言うには「オヤオヤ、お前はなんという因果な場所に落ちたのだ。それはお前
の因縁であるからどうにもならぬ。
諦めて往生するがよい」 しばらくすると、

今度は
孔子がやって来て同じように井戸を覗きこんで言った「オヤオヤ、お前がそのような
惨めな場所に落ちたのは、お前の平生の悪い行いが報いたのだ。残念だがどうするこ
ともできぬ」 そこで私は絶望してしまった。

そこにやって来られたのが主イエス・キ
リストであった。主イエス・キリストは井戸の底で絶望している私の所に黙って降り
て来て下さり、私をご自分を踏み台にして井戸から外に押し出して救って下さり、ご
自分は身代わりになって死んで下さったのだ」この3人の中で誰がまことの救い主で

しょうか?。
答えは明白ではないでしょうか。
「イエス・キリスト、
この御名のほかに
私たちの救いはない。天上天下、この唯一の御名を除いては、いかなる名にも救いの
権威はないのである」

第2に、主イエスが世を去られたのは、主の弟子たち(私たち)が主の御名によっ
て全ての罪と誘惑から守られるためでした。なによりもその確かな恵みを主イエスみ
ずから「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」と祈られ
たのです。私たちはいつも「主の御名によって守られている」という感謝の内に生活
しているでしょうか?。私がいつも卓上に置いて愛用しているギリシヤ語の辞書に、
この「御名」
(オノマ)という言葉の訳語として“オーソリティ”
(権威)という英語
が出ていました。
「キリストの御名」
とは何よりも
「キリストの御業による救いの権威」
のことなのです。ですから私たちが「主イエス・キリストの御名によって」祈るのは
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「キリストの御業による救いの権威によって」祈ることなのです。
それならば、私たちが「キリストの御業による救いの権威に守られて」いることは
「あなたは主の御名によって祈るとき、すでに主の永遠の恵みのご支配の内に生きる
者とされている」という意味ではないでしょうか。私たちは努力精進し修行を積んで
ようやく救われるというのではないのです。何か特別な資格や条件や能力を求められ
ているのでもないのです。私たちはあるがままに、ただ信仰によって、教会に連なる
ことによってのみ、キリストの救いの「権威」の内に生きる者とされ、キリストの御
業に生かされているのです。それゆえこの「権威」とは既に完成し成就した救いの出
来事です。教会はやがて完成する神の国の先取りであり、礼拝は御国における聖徒ら
の永遠の交わりの先取りです。キリストの復活の勝利の生命に結ばれて生きることで
す。特に私たち改革長老教会はこのキリストの権威を現す群れを建てることを教会形
成の不変の目標としているのです。
キリストの権威(私たちのためになされた救いの御業)あってこそ私たちはただ信
仰によって救われたのです。その最も確かなしるしが教会です。なぜなら教会はキリ
ストの権威を世に現わす唯一の群れだからです。その唯一の「かしら」はキリストの
みであり、私たちはキリストのみを「かしら」とする聖なる公同の教会に連なって、
はじめてキリストの肢体(復活の生命に連なる枝)とされるのです。だから教会は、
牧師は、長老会は、自分を現わさず、ただキリストの救いの権威のみを現わします。
そこに連なる私たち一同は礼拝者として御言葉を正しく聴き、キリストの肢体として
健やかに成長してゆくことにおいて、ともにキリストの救いの権威に仕える群れとさ
れてゆきます。キリストに結ばれて真の神の宮へと成長してゆくのです。
主イエスははっきりと「人の子(キリスト)は地上で罪を赦す権威を持っている」
と弟子たちに言われました。主イエスのみがこの地上(歴史と現実世界)において罪
の赦しと復活の唯一の「権威」を持って私たちを守り支えて下さるのです。それは世
界万物を新たにされる「権威」です。だから「権威」を意味するギリシヤ語“エクス
ウシア” 「本質から出た救い」

という意味です。
これをさきほどの
「御名」
(オノマ)
と重ね合わせると、キリストの「御名の権威」とはキリストの十字架という本質(御
業)から出た「永遠の救いの力」であることがわかるのです。
キリストは「世の創めより屠られたまいし神の羔」です。キリストは「世の創めよ
り」
変わることなく私たちの
“救いの権威”
であられるのです。
「世の創め」
からとは
“歴史を超えて”ということです。歴史の救いは歴史の中にはなく、世界の救いも世
界の中にはありません。それはただ歴史と世界の主なる神にのみあるのです。これは
どんなに幸いなことでしょうか。この歴史と世界は既にキリストの贖いの権威のもと
に新しくされつつあるのです。私たちはそれを知っているのです。
さて、最後に第3の事柄を顧みて参りましょう。特に私たちはこの 17 章の御言葉
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が主イエスの「決別の祈り」であることを改めて思い起したいのです。そうすると、
私たちがなぜ「主イエス・キリストの御名によって」祈るのか、その意味がより明ら
かになります。それは何よりも、主イエス・キリストご自身がその唯一の救いの御名
(救いの権威)によって私たちのために祈って下さった、言い換えるなら、主は今朝
のこの 17 節の祈りの真実をもって私たちのために十字架を背負って下さったからで
す。それならば、この 17 章の祈りの全体に私たちの測り知れない「罪」の重みがか
かっているのです。それを全て主は担い取って下さった。主はこの祈りにおいて全て
の「罪」と「死」に勝利して下さったのです。だからこそ私たちはどのような時にも
「主イエス・キリストの御名によって」祈る幸いを与えられているのです。キリスト
の「救いの権威」の内に生きる者とされているのです。キリストの御身体の活きた枝
とされているのです。
なによりも、主は今朝の 11 節の最後にこう祈られました。
「それはわたしたちが一
つであるように、
彼らも一つになるためであります」 私たちは人間どうしの信頼や一

致や結束なくして社会生活を営めません。しかし同時に私たちは、それがどんなに弱
く脆いものであるかも知っています。イスカリオテのユダの罪は私たち一人びとりの
罪でもあるのです。そのような私たちだからこそ、主イエスはまさに溢れるばかりの
「救いの権威」をもって祈って下さいました。まさに主イエスの祈りにおいてこそ、
私たちのあらゆる弱さと破れが既に十字架の勝利の御手に担い取られているのです。
だから私たちは主の教会でただの“仲良しごっこ”を作るのではない。神の国の永
遠の喜びを歴史の中で現わす礼拝に連なる者とされているのです。わたしたちが一つ

であるように」と主は祈られました。父なる神と御子イエスが永遠の昔から完全な愛
の交わりの内にあられたように、
そこにいまあなたも入れられている、
招かれている、
生かされている、そのように主ははっきりと宣言して下さるのです。
それこそまさにこの教会であり、礼拝における「聖徒の交わり」です。聖餐におい
て現される「聖徒の交わり」です。ここには永遠の三位一体なる神の聖なる交わりが
私たちのただ中に現されているのです。そこに私たちが招き入れられ、生かされてい
るのです。父なる神と御子キリストとの完全な一致が、この礼拝においてこそ生きた
姿を取って私たちに現されているのです。
「救いの御名」
が永遠に私たちと共にあるの
です。そこに全ての人々を、主はご自身の教会によって招いておられるのです。
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