Wikipediaによるとキリスト教では古典ギリシア語での神の無限の愛、人間に対し普遍的に提供される愛をギリシア語の αγαπη/agápēという言葉で表わしました。ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には四つあり、エロース (ερως/Érōs, 性愛) 、フィリア (φιλια/Philia, 隣人愛) 、アガペー (αγαπη/Agápē, 真の愛) 、ストルゲー (στοργή/Storgē, 家族愛) である。エロースは古代ギリシアにおける神聖な神であり、また「性愛」や「肉体の愛」を典型的に意味した。エロースは文化人類学的にも良く知られるように、女性の生殖は神秘であり驚異であり、神聖なものであった為、神と見做されたのであり、それ故、生殖の前提となる肉体の交渉での愛を必ず含意した、フィリアは、親子、兄弟、友人間の人間的ではあるが麗しい愛を表すのに用いられているそうだ・・・
心理学とか宗教学、神学(キリスト教など)を勉強するとよく引用される4つの愛の形の原点がここにありそうだ・・・
仏教ではどうなるのだろう?・・・仏教では人生は苦となるらしいけれど、どうなのだろうか?・・・
Wikipediaによると仏教における苦(く、duHkha、दुःख)とは、サンスクリット語の「ドウクハ」に由来する。「ドウクハ」は「豆法」と音写され、苦と訳された。「ドウクハ」の「ドウ」(duH = dus)は、「悪い」という意味、「クハ」(kha) は「運命」「状態」の意味であるから、苦とは、もともと悪い状態、悪い運命というような意味をもっていたが、一般に身心を逼悩することをいうとされる。すなわち、精神と肉体とが悩みに逼迫されている状態である。このうち、精神の苦について、憂・愁・嫉妬などをあげている。また、肉体的な苦は種々の病などであるという。「仏教では、この世は『苦』であると説く」と聞くと、日本語の"苦"を思い浮かべてしまうのが普通である。しかし釈迦の説く「苦」は、現代語の「苦」とは別物であることに注意が必要である。具体的には、肉体的な苦痛と、精神的な苦痛とがあるが、仏教で説く「苦」とは「思うようにならない苦しみ」という程の意である。ここでは、その精神的な苦痛を哲学的意味の苦と表現している。したがって、覚りを得たからといって、病気や肉体的な苦痛が無くなる訳ではない。古い仏典には、肉体的な苦痛に耐える釈迦が描かれているし、釈迦が病死したことは間違いないとされている。
仏教の苦は四苦といわれる生・老・病・死、加えて八苦といわれる愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦をみても、実際には具体的な現実苦を示すことは注意すべきで、我々日本人が良く使う苦とは別であるらしい。
それでは仏教で愛の思想はあるのだろうか?・・・
仏教では愛という言葉には様々な使いかたがあるようです。愛 piya、priya、親愛 pema、preman、欲楽 rati、愛欲 kama、渇愛 tanha、trstna などです。私は、前三つは、その対象によって分類され(自己、他者、特定の個人)、後二つは、その内容によって分類され(性的愛、盲目的衝動的執着の愛)ているように思われました。
仏教では、渇愛が人間の愛の本体であり、苦悩の源泉であると考えられます。そして、この苦悩から慈悲の心が生まれるのです。自分の苦悩を本当に知る者が、他者の苦悩にも共感できるからです。そして、この慈悲が他者に対する無条件の究極の愛の姿として「無縁の慈悲」、つまり私が誰かに何かをしてやるという三つの条件を全く意識しないで他者を幸せにするものと説かれました。
仏教の慈悲には人間的な愛の純粋性と共通するものがあります。それで漢訳仏典では、慈悲を愛と訳すことがあるというのです。これで、先の疑問も少しは晴れるというものです。しかし、慈悲は愛と全く同じという訳ではありません。愛が宗教的な自覚で深められて慈悲となるからです。慈悲は、愛憎という対立を超えた、見返りを求めることのない絶対の愛の姿であり、しかも一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想としています。
宗教は本当に人をハッピーにラッキーにしてくれるのだろうか?・・・
宗教に頼らなければならないのは良い事ではない様に思うけれど、宗教やっている人はどう思っているんだろう?・・・

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